決して
同情していたのではない
憐れんでいたのではない
善意でもない
諦めでもない
あのひとを
詐欺師だったとも思わない
しかし
あの暑苦しい日射しにもかかわらず
珍しく軽い足取りだったわたしを
わたしにしか聞こえない声で呼び止めたのは
確かにあれは眼を患った
酒と煙草の匂いにまみれた
また
今のわたしと同じように哀しげな
あの頃のわたしと同じように行く当てもない
とても貧相な浮浪者であった
JRの切符売り場の前で
雑踏にかき消されそうになりながらも
か細い声でわたしに呼びかけてきた彼のために
わたしは足を止めた。
彼はわたしにこう言った。
「お金が足りない」
眼を患った彼は
どこかに行きたいらしかった。
そのためのお金がなかったのだ。
彼は乗車賃をかすれた声でせがんだ。
わたしは黙って聞いていた。
彼の患った眼はずっとわたしに向けられている。
わたしは彼を憐れんでいたわけではなかった
その場をすぐに終わらせたいわけでもなかった
周りの目線など少しも気にならなかった
しかしわたしはいつのまにか財布に手を伸ばし
彼にせがまれた乗車賃を差し出していた
その時の彼の表情には何の変化も見られなかったが
とにくかわたしはもうこれで終わりだと思い
その場を後にしようと思った。
そして行く当てもない電車に
眼を患った彼と同じような眼をして
浮浪者のように乗り込もうと思った。
すると眼を患った彼はわたしにまたこう言ってきた。
「母が病気で入院している」
わたしはまたしても黙って聞いていたが
彼は最初そんなことを言っていなかった。
眼を患った彼によると
その母親が入院している病院は
最初に彼が示した目的地よりももっと遠くにあるという。
だからその分だけさらに乗車賃が欲しいのだと言ってきた。
彼の眼は相変わらずわたしの方を見ていた。
わたしの耳の中には周囲のどんな音も入ってこなかった。
ガード下の騒音さえその眼に吸い込まれているように思われた。
だがしかし、この時にも酒と煙草の匂いは彼の体から漂っていた。
しかもそれはさっきよりも鮮明なものとなって匂った。
だからわたしは疑った。
わたしはついに疑ってしまった。
その前まではそれらの匂いなどほとんど気にしていなかったが
母親の件を言われた瞬間に
むしろわたしは彼についてそれ以外気にならなくなってしまった。
わたしはこころのなかでこう思った。
眼を患ったあなたは
なぜ酒と煙草を買ったのか。
なぜもっと大事に使わなかったのか。
そうすればこんなことをしなくても
母親のもとまで行けただろう。
私は彼の要求をまったく聞き入れなかった。
わたしが最初彼に対して抱いていた不可解な素直さは
すべて彼への疑いに変わってしまっていた。
わたしはそのあと
眼を患ったその人と
どのようにして別れたのかは覚えていない。
恐らくわたしは彼のほうを振り向くこともなく
暑苦しい雑踏と共に改札をくぐっていったと思う。
そして電車に乗ってどこへと行ったのかも覚えていない。
覚えているのはただその人と出逢ったということだけだ。
しかしいま思えば、眼を患った彼はまぎれもなく
行く当てもなかったあの頃のわたしそのものだったのだ。
わたしと彼は間違いなく出逢うべくして出逢ったのだ。
あの頃のわたしの眼と、彼の眼とは
まったく同じものだったのだ。
そしてそれはいまでもそうなのだと、ためらうことなく言い切れる。
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