2017/03/23

冬の蜘蛛




いずれにせよこの場所に
真夜中に迷い込んできたあの蜘蛛は
少なくとも今日は潰されずに済んだんだね。

ぼくが一生懸命になって
今までどれだけの喜びを得たとか
どれだけの罪を犯しただとか
それがどんな風なものだったとか
そんなことを知らない誰かと比べ合っている間にも
あの蜘蛛は小さな体を使って
どこかぼくなんかには見えないようなところで
大きな巣でもつくっているんだろうか。
それともまるですっかり割れた風船みたいに
ぐしゃぐしゃになってしまっているんだろうか。

ぼくは今日こんなにも美味しいオレンジを食べたけれど
そしてこのオレンジはとっても甘くて冷たかったのだけど
やっぱりあの時計の針は止まってくれはしないし
まして逆向きに回ってくれもしないだろうし
月だって雲に隠れて最後らしい雪も降り積もるんだろうし。
クッションも変てこに重なり合ってしわくちゃになるし
机からは新聞紙が今にも落ちてしまいそうになっているよ。

だからとてそれらが全部時の流れの仕業だってことを
すっかり見て見ぬ振りをしてはいけないんだものね。

ああこんな時には本当にテレビなんか見たくもないし
世界がこんなにも広がって奥行きを持って現れてきても欲しくない。
ぼくの中にせっかくつくりあげられたぼくだけの世界を
なにかどうしようもないくらい時代遅れの法律によって
まるで犯されでもしたかのように壊されたくはないんだよね。

けれどもそうは言ったってだよ。
「君は果たして君の世界は全く君だけによって
 あそこの河原に生い茂っている自然林のように
 勝手にうまれて出てきたんだなんて思っているのではないだろうね。」
ハハハハ、まさか。
たとえぼくの偏屈が何遍叩いても伸びない鉄だったとしても
ぼくはたったいま夜空に架かった虹の橋に誓ってそんなことはないと言うよ。

ところでそういう君の方は一体どうなんだい。
君はぼくに以前からこんなことを言っていたよね。
「やっぱりぼくと君は今日も結局この時間になると
 どこからともなく漂ってきて口の中を美味しくしてくれる
 このうつくしい匂いを嗅ぎながら別れることになるのだけど
 そのせいで僕たちがこんなにも言いようのない気持ちになるくらいなら
 いっそのこと最初っから僕たちは別れてしまうことを前提にして
 こうやって友達になるべきじゃなかったのではないだろうか。」
ハハハハ、冗談言いなさんな。
そんなことをばかり言っているから僕たちはいつまでたっても
ほんとうの約束っていうものを結ぶことができないんだよ。

たとえそれがどんなに辛いものだったとしても
それが過ぎ去ってしまえば、「ああなんてことなかったんだね」
そうきっぱりと言えるようにならなくちゃいけないって
さっきからパチパチと窓を叩く雪の粒だってそう言っているよ。

だから君はぼくのことをそうやって鏡越しに眺めて
その鏡越しのぼくに向かってうんざりするようなことはしないでおくれよ。
君はそれがぼくの方から見ても同じようなことになっているんだということに
気づいてくれていないんだろうか。

ああ僕たちはやっぱりそうなんだね。
僕たちはやっぱりこのままだと
永遠にほんとうの約束を結ぶことなんてできないということは
国境をまたぐこともできずに死んでしまう人たちがいるということくらいに
もう分かりきったことになってしまうんだろうかね。

だけどもせめてぼくだけは信じようよ。
ぼくが今まであんなにばかにしていた聖書の中にあるような言葉を
ああせめてぼくだけは信じようよ。
蜘蛛がこうやってせっかくこの部屋に迷い込んできてくれたんだから。